ウルドゥー語研究の家(دار التحقیق اردو)

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ヒンディー語、ウルドゥー語、ヒンドゥスターニー語、そしてマウルヴィー・アブドゥル・ハク

まず、本ブログにて記事翻訳を思い立ったきっかけは、以前からウルドゥー語に関連した情報発信を考えており、今年の6月頃にアキール博士の大手ウルドゥー語新聞社Jang掲載記事を見た時である。ただそこまでネットに出回っているアキール博士の新聞記事は少ない(論考は結構ある)ので、パキスタンの大手英字新聞社DawnのRauf Parekh博士の記事も訳そうと考えたのが始まりである。Rauf Parekh博士の記事は10数年分の記事がたまっているので簡単にネタが尽きない、むしろ終わりが遠くに見える。ペースをつかむまで不定期投稿になるとは思いますが、よろしくお願いします。

そして最初はやはりウルドゥー語の父アブドゥル・ハクについて。ウルドゥー語研究の礎を築いた人物であり、東パキスタンベンガル語公用語化に反対したことでも知られる。記事では主にウルドゥー語促進協会に触れつつ、ウルドゥー語ヒンディー語論争を主題にアブドゥル・ハクの主張を簡潔にまとめている。

 

Parekh, Rauf . 2021 (August 16). Literary Notes: Hindi, Urdu, Hindustani and Moulvi Abdul Haq, Dawn.(2021年9月9日閲覧)

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ヒンディー語ウルドゥー語、ヒンドゥスターニー語、そしてマウルヴィー・アブドゥル・ハク

2021年8月16日

ラウフ・パーレーク

今からちょうど60年前の1961年8月16日、ウルドゥー語の父(Bābā-e Urdū)と呼ばれるマウルヴィー・アブドゥル・ハク(Maulvī ‘Abdul Ḥaq, 1870-1961)氏が亡くなった。

アブドゥル・ハクは1912年にウルドゥー語促進協会(Anjuman-i Taraqqī-yi Urdū)の事務局長となり、約半世紀にわたってウルドゥー語の普及に尽力してきた人物である。

ウルドゥー語促進協会は、亜大陸で近代教育を推進したサイイド・アフマド・ハーン(Sayyid Aḥmad Khān, 1817-1898)が1886年に創設したムハンマダン教育会議(Muhammadan Educational Conference)の流れを汲んでいる。

1905年にインド国民会議ベンガル分割へ抗議したことを受け、ムハンマダン教育会議は1906年ダッカ会議で、最後までパキスタン[独立]のために戦い、勝利した政党である全インド・ムスリム連盟(All India Muslim League)の結成を決めた。すなわちウルドゥー語促進協会だけでなく全インド・ムスリム連盟もムハンマダン教育会議から生まれたのである。

ウルドゥー語は、ヒンドゥー教復興主義者たち[=アーリヤ・サマージ]によって「ムスリムの言語」とタグ付けされてきたが、ウルドゥー語を知っている人や話せる人は、決してそのような馬鹿げた主張をしてこなかった。ファルマーン・ファティフプーリー(Farman Fatehpuri)博士によれば、ヒンディー語ウルドゥー語論争は1857年以降に表面化し始め、1860年代に一部のヒンドゥー教指導者やヴァーラーナシーやイッラーハーバードに所在していたヒンドゥー組織が、公用語ウルドゥー語から多数派の言語であるヒンディー語に置き換えることを要求していた。この柔軟性に欠けた姿勢は、サイイド・アフマド・ハーンのような穏健で平和主義のムスリムにかの有名な「二民族論(Two-Nation Theory)」を綴らせることを強いた。

ヒンディー語ウルドゥー語論争は、見方によればインドにおけるムスリムナショナリズムを誕生させ、パキスタンへの道を開くことになる全インド・ムスリム連盟とムハンマダン教育会議の結成につながった。ゆえにウルドゥー語パキスタン創設に重要な役割を果たしたのである. (Hindī Urdū Tanāzaʿ, 1977, pp. 105-153).

ムハンマダン教育会議は当初、教育促進のための3つの委員会を構成し、「ウルドゥー語促進部(Shoʻba-yi Taraqqī-i Urdu )」はその附属機関であった。しかし、ウルドゥー語を普及させるためには、独立した組織、すなわち「アンジュマン(anjman)」(文字通りの意味での集会や協会)の必要性を感じ、1903年に「ウルドゥー語促進部」は「ウルドゥー語促進協会(Anjuman Taraqqī-i Urdu)」と改称された。シブリー・ノーマーニー(Shiblī No‘mānī, 1857-1914)が初代事務局長となり、事務所はアリーガル(Aligarh)に置かれた。1912年にアブドゥル・ハクが事務局長を引き継いだ当時、ウルドゥー語促進協会はあまり功績を残せなかった。アブドゥル・ハクは、デカンの支配者の庇護を受けて、1913年に事務所をアウランガーバード(Aurangabad)に移した。1938年、名称に「ヒンド」を付け加え、デリーに事務所を移転した。これはウルドゥー語普及のためにより効果的な役割を果たし、感情的に燃え盛っていた政治的前線、すなわちパキスタン運動に参加するためであった。言語問題では、マハトマ・ガンディーとアブドゥル・ハクが対立していた。ガンジーはインドの共通語として「ヒンドゥスターニー語」を提唱し、アブドゥル・ハクはそれに対しヒンディー語帝国主義の気配を感じ、「ヒンドゥスターニー語」の本当の意味を問いただしていた。

「ヒンドゥスターニー語」などというものは存在しないとアブドゥル・ハクは主張した。バローダ(Baroda)で開催されたインド東洋会議(Indian Oriental Conference)の議長演説(1933年12月)の中で次のように述べている。「社会的な演説や政治的な著作において、ヒンドゥスターニー語に言及する声が多くある。ヒンドゥスターニー語とは何か、それはどこにあるのか。誰がヒンドゥスターニー語で書いているのか?それは日常会話やビジネス以外では存在しない。ヒンディー文学やウルドゥー文学にも見当たらない。ヒンドゥスターニー語は学術的に使われる言語ではない。どの文字で書かれるかによってウルドゥー語もしくはヒンディー語になるのである」(Khutbāt-e ‘Abdul Ḥaq, pp.26-27)。

国民会議が言語に関する以前の姿勢を撤回したとき、アブドゥル・ハクはその問題を再提起した。ラーホールのイスラーム擁護協会(Anjuman Himāyat-i Islām)での会長演説(1936年4月)で次のように述べている。「インド国民会議は、インドの言語はヒンドゥスターン語、それはナーガリー文字、またはペルシア文字で表記するという決議をした。それは賢明なことだが、彼らは実際に異なることを計画していた。………1935年4月、マハトマ・ガンディーはインドールヒンディー語会議(Hindi Samilan)を主宰した。彼らは満場一致でヒンディー語普及のために協力することを決議し、委員会が設立された。………ムンシー・プレームチャンド(Munshī Premchand, 1880-1936)が編集していた月刊『白鳥(Hans)』はその委員会の傘下に入り、………その10月号で編集者は「今やヒンディー語は我々の国の言語となり、マハトマ・ガンディーのような改革者はそれを国の生きた言語にしようと決めた。これまではヒンドゥスターニー語が国の言語であり、議会もそれを公然と受け入れていた。しかし今、このヒンドゥスターニー語はヒンディー語になってしまった」(同上、67-69ページ)。

アブドゥル・ハクは、生ぬるいウルドゥー語促進協会をダイナミックで活気のある組織に変え、文学や言語面だけでなく、政治面でも闘った。アブドゥル・ハクは、民族主義的な理由でウルドゥー語を擁護するだけでなく、クリー・クトゥブ・シャー(Qulī Qutb Shāh, 1565-1612)の詩集(Dīwān)など、非常に珍しいウルドゥー語の写本を発見、編集、出版し、ウルドゥー語文学の歴史に数世紀を加えた。

独立後、パキスタンに移住したアブドゥル・ハクはカラーチーにパキスタンウルドゥー語促進協会を設立した。パキスタンウルドゥー語促進協会は現在も彼の使命を引き継いで研究活動を行っており、非常に貴重な書籍を図書館で保存するとともに研究所を出版している。