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『さて何をなすべきか、おお、東洋の諸民族よ』なぜイクバールは1000ルピーの小切手を返還したのか

ラウフ・パーレーク博士はイクバールの誕生日である11月9日前後に毎年イクバールに関する記事を投稿している。今回は昨年2021年に書かれたイクバールのペルシア詩集に関する記事を紹介する。

 

Parekh, Rauf. 2021 (November 8). Literary Notes: ‘Pas Che Bayad Kard’: why did Iqbal return a cheque for Rs1,000?, Dawn.(2022年1月3日閲覧)

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『さて何をなすべきか、おお、東洋の諸民族よ』なぜイクバールは1000ルピーの小切手を返還したのか

2021年11月8日

ラウフ・パーレーク

 

 『さて何をなすべきか、おお、東洋の諸民族よ(Pas cheh bāyad kard, ae aqwām-e sharq)』アッラーマ・ムハンマド・イクバールによるペルシア語で書かれたマスナヴィー詩である。1936年に初版が出版され、その初版にはイクバールの別のペルシア語マスナヴィー詩集である『旅人(Musāfir)』も含まれていた。

 『旅人』は1934年に初版が出版され、それは1933年に訪問したアフガニスタンへの旅の成果であった。アッラーマ・イクバールと(イスラーム学者の)サイイド・スライマーン・ナドヴィー(1884-1953)、(ムスリムへの西洋近代教育を推し進め、アリーガル・ムスリム大学を創設したサイイド・アフマド・ハーンの孫である)ラース・マスード(1889-1937)はアフガニスタンの教育政策立案のために、〔当時の〕統治者であったムハンマド・ナーディル・シャー(1883-1933)に招かれた。これら二つのマスナヴィー詩が一つにまとめられて出版された理由として、「『さて何をなすべきか』が『旅人』の結末編である」と複数の学者は言っている。

 Yousuf Saleem Chishtiはかつて以下のように述べている。「もしイクバールの全ての詩を本体とするならば、『さて何をなすべきか』はその心臓部にあたる。『さて何をなすべきか』はイクバールのメッセージをほんの530の対句でまとめている。そこではムスリム諸国が直面する非常に重要な問題を論じ、搾取的な政治経済政策をとる西洋を厳しく批判しつつも、見事な詩的手法と美しい言葉でまとめられている。

 『さて何をなすべきか』 は常に知識人たちを刺激し続けている。Yousuf Saleem Chishtiは1957年にテキストの翻訳なしに『旅人』と『さて何をなすべきか』を一つの版にまとめて、ウルドゥー語による詳細な注釈を附して出版した。

 Ilahi Bakhsh Akhter Awanは1960年に『さて何をなすべきか』のウルドゥー語訳とその注釈をペシャーワルから出版した。Rafiq Khawarは1977年にウルドゥー語韻文訳を出版、Khwaja Hameed Yazdaniは学生向けの注釈を2004年に出版した。彼の注釈は1999年に簡易版が名前を変えてすでに出版されていた。

 インドではウルドゥー語による韻文完訳がSyed Ahmed Isaarによって2006年に出版されている。このイクバールによるマスナヴィー詩集は英語及びパンジャービー語にも訳されている。

 そして『さて何をなすべきか』の新たな韻文訳がちょうど出版された。Tehseem Firaqi博士による『今何をなすべきか、おお、東洋の諸民族よ(Ab kyā karnā chāhīye, ae aqwām-e sharq)』はラーホールのイクバール・アカデミーから出版された。自由詩を韻文化し、Firaqi博士による学術的な前書きとともに、ペルシア語の原文も掲載している。

 イクバールがこの偉大な作品を生み出した時代的背景を以下のように要約している。「外国勢力がパーキスターン・インド亜大陸を支配し、社会の多くが精神的にその奴隷制を受け入れていた歴史的状況においてイクバールは出現した」と序文でフィラーキーは言う。『東洋のメッセージ(Payām-e Mashriq)』が出版された13年後に『さて何をなすべきか』が出現したことは偶然ではなく、東洋は世界の古代文明の揺籃の地であり、全ての神聖な宗教は東洋に由来していることと深くつながっている」とフィラーキーは付け加える。イクバールは東洋の国々に対して団結し立ち上がるよう求めている。

 イクバールはアラブ諸国に対し、西洋列強から「貯水池(hauz)」〔すなわち油田〕を遠ざけておくよう勧めている。しかし、西洋諸国は石油を含むすべての富とともに東洋を植民地化しただけでなく、現在では〔西側が〕世界銀行国際通貨基金という名を借りて、新植民地主義が顕在化しているとフィラーキーは言う。

 『さて何をなすべきか』が強調するもう一つの側面は、唯物論精神主義の衝突である。東洋の復活は精神主義にあるとイクバールは言う。 『イスラームにおける宗教思想の再構築』において、道徳と倫理を強調しながら「今日のヨーロッパは人間の倫理的進歩を阻む最大の障害物である」と述べている。

 また、イクバールを苦しめたであろう不幸な出来事についても、フィラーキーは記している。それは『さて何をなすべきか』の出版直後に起こったことである。Dr Riaz Ahmedの言葉を引用して、『さて何をなすべきか』の出版の約1年前、イクバールは病気と財政問題に悩まされていた。イクバールの息子Aftab Iqbalとイクバールの親友Sardar Umrao Singh Gul Sherは、デカンのハイデラバード藩王国の要職にあったアクバル・ハイデリー卿(1869-1941)に手紙を出した。しかし、ハイデリー卿からの返答は、イクバールが『さて何をなすべきか』で西洋を厳しく批判したため、デカンではイクバールに対する何らかの「審理」が行われており、デカンからの支援は不可能であることが仄めかされていた。「審理」を視野に入れつつ、イクバールはハイデリー卿から送られた1000ルピーの小切手を返還した。イクバールは、ハイデリー卿に宛てた詩の中で「施し(ザカート)」と呼ばれるものを受け取ることを軽蔑して拒否した。その小切手は、1938年1月7日にイスラーム文化協会によって祝われた「イクバールの日」の機会に送られたものであった。その詩は『ヒジャーズの贈り物』に収められている。

 フィラーキーの前書き自体がイクバールについて書かれた注目すべき名文である。