ウルドゥー語研究の家(دار التحقیق اردو)

ウルドゥー語研究&南アジア・イスラーム研究を行なっています。

『源氏物語』のウルドゥー語完訳

先月『源氏物語』のウルドゥー語完訳が出版された。計1128ページ、昨今日本で流行りの鈍器本。それ以上にこの超大作の完訳(英語からの重訳ではあるものの)がウルドゥー語で出版されたこと自体奇跡かもしれない。*1

本文は日本のノーベル文学賞作家をウルドゥー語で紹介した翻訳家の故バーカル・ナクヴィー(Baqar Naqvi)氏によるものである。初稿を書き上げた後、本書の出版を見ることなく2019年にお亡くなりになられた。その後、日本・パキスタン文学フォーラム(カラチ)の創設者の一人フッラム・スヘイル氏が本文の修正と注釈を加えて、労苦の末出版に漕ぎ着けたそうである。

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岩波文庫と比較して、この偉大なる鈍器本が伝わるだろうか、、、

残念ながら私はそこまで古典の造詣が深くないので、日本語原文と比較してこのウルドゥー語訳を批評することができない。翻訳に際して、『源氏物語』を世界的に有名にしたアーサー・ウェイリー訳と川端康成の『雪国』を行ったことで知られる エドワード・サイデンステッカーの訳を参照しているとのこと。

私の『源氏物語』認識は2009年のアニメ「源氏物語千年紀Genji」で終わっている。与謝野晶子谷崎潤一郎田辺聖子瀬戸内寂聴の現代語訳くらいは読んでおかねばと思った次第である。

Parekh, Rauf. 2021 (September 13).  A woman writer’s thousand-year-old Japanese novel translated into Urdu, Dawn.(2021年9月16日閲覧)

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千年前の日本人女性による小説のウルドゥー語

2021年9月13日

ラウフ・パーレーク

源氏物語』は、異論はあるもののしばしば「世界初の小説」と呼ばれることが多い。この日本語の小説は1021年頃、平安時代の高位で皇室の侍女であった紫式部によって書かれた。つまり世界初の小説家は女性だったのである!しかし「紫」は本名ではなく、光源氏に次ぐ主要な人物(紫の上)の名前にちなんで、おそらく彼女のアイデンティティを守るためにつけられた名前である。

原文で使われているのは、古語であり一般の日本人にも理解するのが非常に難しい言葉が使用されているため、女流歌人与謝野晶子が20世紀初頭に現代日本語に翻訳した。
1880年代に末松謙澄による源氏物語の部分英訳が出版されたものの、完訳は〕イギリスの東洋学者アーサー・ウェイリー(Arthur Waley, 1889年-1966年)によって英語化され、1925年に第1巻、1933年に最後の第6巻が出版された。この小説が〔欧州を超えて〕世界的により広く知られるようになったのは、日本の小説家、川端康成による1968年ノーベル賞受賞演説においてこの小説に言及したことがきっかけである。
1976年には、日本学者のエドワード・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker, 1921年-2007年)による英語完訳が出版されている。。その後、いくつかの英訳が出ている。

この小説では、光源氏の人生と、彼の様々な女性との数々の恋愛を描いている。光源氏の身分は皇子であったが、異母兄であった[朱雀]帝ににより低い地位に降ろされ、流刑にされた。最終的に光源氏は赦され、当時の日本の首都、京都に戻ってくる。〔建前上は光源氏の父親、桐壺帝の第10皇子で〕実の彼の息子(非嫡出子)[冷泉帝]は光源氏が実の父親であることを知りながら天皇となる。後に光源氏最愛の紫の上が亡くなり、ある章では光源氏の死が示唆されている。

しかし、この小説は突然終わりを迎え、未完のまま終わってしまったような印象を抱くかもしれない。数年前に完結章が見つかったとの噂もある。エドワード・サイデンステッカーによれば、作家は終わりを意図せず、書けるだけ書き続けたとする。しかし在カラチ日本国総領事の磯村利和氏は、この本の簡単な紹介文の中で、より妥当な説明を示唆している。〔作者が生きた〕当時は紙が非常に不足していたため、紙を手に入れるたびに執筆を再開していたのである。これが完成するまでに時間がかかった理由の一つである。非常に面白い!

この小説はフィクションではあるが、11世紀の日本の皇族や宮廷人の生活を直接描いたものであり、作者は御所の雰囲気や[宮中の]張り巡らされた陰謀をよく知っていた。現代の読者は約1000年前の日本の貴族の生活を〔本書から〕うかがい知ることができる。

源氏物語』を一番はじめにウルドゥー語に翻訳したのは、〔インドの元アッラーハーバード大学ウルドゥー語学科長で進歩主義運動を代表する〕著名な文芸評論家であったサイイド・エーフティシャーム・フサイン(Ehtesham Hussain)氏である。彼は1971年に全54章のうち最初の9章を要約したウルドゥー語版を出版している。そしてこの度、全54章がウルドゥー語に翻訳された。

著名な翻訳家・詩人であったバーカル・ナクヴィー(Baqar Naqvi, 1936-2019)氏は、晩年『源氏物語』の翻訳を始め、第一稿を作成していた。そして『源氏物語』をウルドゥー語に翻訳することを彼に提案したフッラム・スヘイル氏に、その原稿を送っていた。しかし、ナクヴィー氏は2019年に亡くなり、フッラム・スヘイル氏は第一稿の最後の仕上げを一人で行わざるを得なかった。

英訳の助けを借りながら、スヘイル氏は初稿を何度も修正し、当初1300ページあった文章を1100ページにまとめることができた。しかし、あまり知られていない日本の文化的歴史的背景の部分はウルドゥー語読者にとって難解であるため、注釈が必要であると彼は感じた。そこで作業を再開し、非常に有益で情報量の多い脚注を付け加えた。

序文を記している〔日本で〕ウルドゥー語を長年教授・研究している大阪大学山根聡教授は、源氏物語のエッセンスを〔以下のように〕簡潔に表現している。
「この小説には、恋愛、結婚、母の愛、仕事、キャリアにおける成功と失敗など、現代文学にも通じるテーマを有している。さらに重要な事として、この小説では善悪の区別をつけていないという事実がある。本書は道徳的、教訓的な作品ではなく、普通の人間の生活を描き、その心理状態、弱さ、無力さ、怒り、幸福、嫉妬、羨望などを如実に反映している作品である」

〔元〕在パキスタン日本大使の松田邦紀氏は、「この名作は、平安時代初期の皇室、貴族、日常文化を読者に紹介する素晴らしい入門書である」と紹介している。

このウルドゥー語完訳版はカラーチーのラーヒール出版社から出版されている。

*1:源氏物語』をはじめとする海外における平安文学の研究状況を知るサイトとして、「翻訳史-海外平安文学情報」がある。

優れたウルドゥー語研究者たち

本記事では主にパキスタン・インド分離独立以降に活躍したウルドゥー語学者を紹介した記事の訳である。興味深いのはインド側の研究者が多く取り上げられている点で、パキスタン側の研究者もインド側の研究者との学術的な交流または参照が頻繁に行われていたことが伺える。分離独立以降のウルドゥー語研究の発展はパキスタン(またはインド)一国だけでは為しえなかったと言えるかもしれない。

本記事に言及されていない有名な学者も多数いるので、今後ラウフ・パーレーク博士の記事の翻訳を通じて紹介できればと考えている。

 

Parekh, Rauf. 2020 (November 3).  Literary Notes: Some of Urdu’s Great Research Scholars, Dawn.(2021年9月11日閲覧)

 

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優れたウルドゥー語研究者たち

2020年11月3日

ラウフ・パーレーク

 

我々は研究の価値を理解していない社会にいる。科学技術研究は我々の国である程度実を結ぶかもしれない。しかし文学研究や言語研究の大部分は感謝されない仕事である。それでもウルドゥー語の研究は長い道のりを歩んできた。知の巨人たちや後進の研究者たちの先駆的な努力がなければ、今日におけるウルドゥー語研究[の隆盛]はあり得なかっただろう。ウルドゥー語の偉大な研究者の中には以下のような人物たちが挙げられる。

 

マウルヴィー・アブドゥル・ハク(Maulvī Abdul Ḥaq, 1870-1961) 

ウルドゥー語研究の先駆者の一人であるマウルヴィー・アブドゥル・ハクは、多方面[政治やウルドゥー語促進協会の運営等]での戦いを強いられていた。しかし、研究の観点から見ると、マウルヴィー・サーハブ(彼はしばしば尊敬の念を込めてこう呼ばれている)は、ダッカニー[・ウルドゥー]文学に関する研究や(ここでは名前を挙げられないほどたくさんある)ウルドゥー文学の古典テクスト編集で記憶されるだろう。彼がいなければ、多くの写本が跡形もなく消えていただろうし、我々の文学・言語史の多くの部分も消えていただろう。

 

ハーフィズ・マフムード・シーラーニー(Ḥāfiz Maḥmūd Shīrānī, 1880 - 1946) 

ハーフィズ・マフムード・シーラーニーはウルドゥー語テキスト批評の先駆者として知られる。彼は希少な文献や資料を驚くほど正確に把握していたため、彼の結論に異議を唱える者はほとんどいなかった。彼の驚異的で神話破りを行った研究として、『4人の托鉢スーフィーの物語(Qiṣṣa-yi Chahār Darvīsh)』(ペルシア語)*1がアミール・フスラウ(Amīr Khusrau, 1253-1325)の著ではない事実をテキスト批評から証明し、また『創造主(Khāliq-i bārī)』をアミール・フスラウの著作として見なすことにも疑問の影を投げかけたことが挙げられる。またムハンマドフサイン・アーザード(Muḥammad Ḥusain Āzād, 1830-1910)の伝説的な[本格的なウルドゥー詩史の研究書]『生命の水(Āb-e Ḥayāt)』*2を確かな証拠に基づいて粉々にし、彼の「歴史的事実」の多くが作り話に過ぎないことを証明した。彼にはウルドゥー語研究よりペルシア文学研究業績が豊富にある。彼が提唱したウルドゥー語パンジャーブ起源説は今日間違っていることが証明されているが、シーラーニーは数少ない偉大な研究者であり、最も評価されている研究者の一人である。

 

マスウード・ハサン・リズヴィー・アディーブ(Masʿūd Ḥasan Riz̤vī Adīb, 1893-1975) 

マスード・ハサン・リズヴィ・アディーブは、パキスタン・インド分離独立以前に古典ウルドゥー文学のテキストを発見、編集した研究者で、独立後もその研究活動を継続し、さらに優れた研究成果を発表した。ミール・タキー・ミールの『ミールの恩恵(Faiz-i Mīr)ファーイズガザル詩集、ガーリブによる珍しい詩や散文などの貴重な作品を発見し、編集した。

 

ムヒーウッディーン・カーディリー・ゾール (Muḥiuddīn Qādrī Zor, 1905-1962)

ムヒーウッディーン・カーディリー・ゾールは、デカン地方のウルドゥー文学と言語に関する多大な研究を行ったことから、しばしば「ダカニーの父(Baba-e Dakanī)」と呼ばれている。彼はデカン地方の文学に関する研究で有名で、ウルドゥー語の音声学や歴史的言語学に関する研究も称賛に値する。ウルドゥー語傑作小品集(Urdū shah pāre) 、クリー・クトゥブ・シャーの詩集デカン地方のウルドゥー語文学史に関する著作がある。

 

カーズィー・アブドゥルワドゥード(Qāzī Abdulwadūd, 1896-1984

彼は、ウルドゥー語研究者の中でも最も恐れられている人物の一人で、博識で徹底しているだけでなく、率直で忌憚のない意見を持っていました。同時代の研究者はもちろんのこと、ガーリブやマウルヴィー・アブドゥル・ハクのような[ウルドゥー語学の]知の巨人たちの作品の不正確さを指摘することも躊躇しなかった。彼の著書や論文の数は非常に多く、彼が百科事典に匹敵する知識量を有していたことを物語っている。

 

イムティヤーズ・アリー・ハーン・アルシー(Imtiyāz Alī Khān Arshī, 1905-1981) 

編集、編纂の水準を飛躍的に高めた研究者としてラームプール(インド)出身のイムティヤーズ・アリー・ハーン・アルシーがいる。彼が編集、注釈を加えたガーリブのウルドゥーガザル詩集は、最も綿密で最も信頼できるものである。彼は韻律と修辞学に関する書物『雄弁さの規則(Dastūr al-Fasāḥat)』を発見し、学術的な序文をつけて編集した。本書の編集出版自体[重要な]研究である。

 

ギヤーン・チャンド・ジャイン(Gian Chand Jain, 1923-2007)

ギヤーン・チャンド・ジャインは『一つの言葉、二つの文字、二つの文学(Ek Bhāshā, do likhavat do adab)』で物議を醸したことがあるが、彼のウルドゥー語研究への多大な貢献は否定できない。

彼の著作はガーリブ言語学、そしてウルドゥー文学史に関連したものが多く、それらは偉大な他のウルドゥー語研究者と並んで彼の地位を保証するものである

 

ラシード・ハサン・ハーン(Rashīd Ḥasan Khan, 1930-2006)

彼はウルドゥー文学古典のテキストを編集し、注釈を付けた最も優れた学者の一人である。彼のテキストは貴重な写本や最古の出版物に基づいており、完璧な正確さを誇っている。文学研究は彼の得意とするところであるが、彼が得意とするもう一つの分野は正書法である。彼の著書『ウルドゥー語正書法(Urdū imlā)』は、この分野で最も参照されている書物であるが、この問題について彼と異を唱える学者もいる。

 

ジャミール・ジャーリビー(Jamīl Jālibī, 1929-2019) 

ジャミール・ジャーリビーは偉大な文学史家で、彼の4巻本の『ウルドゥー文学史(Tārīkh-i adab-i Urdū)』はウルドゥー文学史の記念碑的な著作として知られる。彼は約40年の歳月をかけて、4,700ページに及ぶ全4巻の歴史を書き上げた。本書はあらゆるウルドゥー文学史の中で最も包括的で最も信頼できるものである。

これに加えてウルドゥー語の最古の文学作品として知られる600年前の写本『カダムラーオ・パダムラーオ(Kadam Rāo Padam Rāo)*3の校訂、出版を行っており、これらの重要な業績は後世の記憶に残るだろう。

 

紙面の都合上残念ではあるが、グラーム・ムスタファ・ハーン(Ghulam Mustafa Khan, 1912-2005) 、アブドッサッタール・スィッディーキー(Abdus Sattar Siddiqi, 1885-1972)、サイイド・ムハンマド・アブドゥッラー博士(Dr Syed Abdullah, 1906-1986)、 ワヒード・クレイシー(Waheed Qureshi, 1925-2009)、ナズィール・アフメド(Nazir Ahmed, 1915-2008)、マーリク・ラーム(Malik Ram, 1906-1993)、ムシフィク・フワージャ(Mushfiq Khwaja, 1935-2005)など、他の偉大な研究者の名前をここで挙げることができなかった。

*1:ウルドゥー語における最初期の出版物であるミール・アンマンの『春と園(Bāgh o Bahār)』(1802)は、『4人の托鉢スーフィーの物語』の翻訳である。

*2:アーザードの『生命の水』に関しては大阪大学言語文化研究科の松村耕光名誉教授が数多くの論考を発表している。

*3:『カダムラーオ・パダムラーオ』に関しては以下の論考の記述が参考になる。北田信「ウルドゥー文学前史:南インドのウルドゥー語文献」『イスラーム世界研究』第7巻(2014). pp.154-156. 

ヒンディー語、ウルドゥー語、ヒンドゥスターニー語、そしてマウルヴィー・アブドゥル・ハク

まず、本ブログにて記事翻訳を思い立ったきっかけは、以前からウルドゥー語に関連した情報発信を考えており、今年の6月頃にアキール博士の大手ウルドゥー語新聞社Jang掲載記事を見た時である。ただそこまでネットに出回っているアキール博士の新聞記事は少ない(論考は結構ある)ので、パキスタンの大手英字新聞社DawnのRauf Parekh博士の記事も訳そうと考えたのが始まりである。Rauf Parekh博士の記事は10数年分の記事がたまっているので簡単にネタが尽きない、むしろ終わりが遠くに見える。ペースをつかむまで不定期投稿になるとは思いますが、よろしくお願いします。

そして最初はやはりウルドゥー語の父アブドゥル・ハクについて。ウルドゥー語研究の礎を築いた人物であり、東パキスタンベンガル語公用語化に反対したことでも知られる。記事では主にウルドゥー語促進協会に触れつつ、ウルドゥー語ヒンディー語論争を主題にアブドゥル・ハクの主張を簡潔にまとめている。

 

Parekh, Rauf . 2021 (August 16). Literary Notes: Hindi, Urdu, Hindustani and Moulvi Abdul Haq, Dawn.(2021年9月9日閲覧)

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ヒンディー語ウルドゥー語、ヒンドゥスターニー語、そしてマウルヴィー・アブドゥル・ハク

2021年8月16日

ラウフ・パーレーク

今からちょうど60年前の1961年8月16日、ウルドゥー語の父(Bābā-e Urdū)と呼ばれるマウルヴィー・アブドゥル・ハク(Maulvī ‘Abdul Ḥaq, 1870-1961)氏が亡くなった。

アブドゥル・ハクは1912年にウルドゥー語促進協会(Anjuman-i Taraqqī-yi Urdū)の事務局長となり、約半世紀にわたってウルドゥー語の普及に尽力してきた人物である。

ウルドゥー語促進協会は、亜大陸で近代教育を推進したサイイド・アフマド・ハーン(Sayyid Aḥmad Khān, 1817-1898)が1886年に創設したムハンマダン教育会議(Muhammadan Educational Conference)の流れを汲んでいる。

1905年にインド国民会議ベンガル分割へ抗議したことを受け、ムハンマダン教育会議は1906年ダッカ会議で、最後までパキスタン[独立]のために戦い、勝利した政党である全インド・ムスリム連盟(All India Muslim League)の結成を決めた。すなわちウルドゥー語促進協会だけでなく全インド・ムスリム連盟もムハンマダン教育会議から生まれたのである。

ウルドゥー語は、ヒンドゥー教復興主義者たち[=アーリヤ・サマージ]によって「ムスリムの言語」とタグ付けされてきたが、ウルドゥー語を知っている人や話せる人は、決してそのような馬鹿げた主張をしてこなかった。ファルマーン・ファティフプーリー(Farman Fatehpuri)博士によれば、ヒンディー語ウルドゥー語論争は1857年以降に表面化し始め、1860年代に一部のヒンドゥー教指導者やヴァーラーナシーやイッラーハーバードに所在していたヒンドゥー組織が、公用語ウルドゥー語から多数派の言語であるヒンディー語に置き換えることを要求していた。この柔軟性に欠けた姿勢は、サイイド・アフマド・ハーンのような穏健で平和主義のムスリムにかの有名な「二民族論(Two-Nation Theory)」を綴らせることを強いた。

ヒンディー語ウルドゥー語論争は、見方によればインドにおけるムスリムナショナリズムを誕生させ、パキスタンへの道を開くことになる全インド・ムスリム連盟とムハンマダン教育会議の結成につながった。ゆえにウルドゥー語パキスタン創設に重要な役割を果たしたのである. (Hindī Urdū Tanāzaʿ, 1977, pp. 105-153).

ムハンマダン教育会議は当初、教育促進のための3つの委員会を構成し、「ウルドゥー語促進部(Shoʻba-yi Taraqqī-i Urdu )」はその附属機関であった。しかし、ウルドゥー語を普及させるためには、独立した組織、すなわち「アンジュマン(anjman)」(文字通りの意味での集会や協会)の必要性を感じ、1903年に「ウルドゥー語促進部」は「ウルドゥー語促進協会(Anjuman Taraqqī-i Urdu)」と改称された。シブリー・ノーマーニー(Shiblī No‘mānī, 1857-1914)が初代事務局長となり、事務所はアリーガル(Aligarh)に置かれた。1912年にアブドゥル・ハクが事務局長を引き継いだ当時、ウルドゥー語促進協会はあまり功績を残せなかった。アブドゥル・ハクは、デカンの支配者の庇護を受けて、1913年に事務所をアウランガーバード(Aurangabad)に移した。1938年、名称に「ヒンド」を付け加え、デリーに事務所を移転した。これはウルドゥー語普及のためにより効果的な役割を果たし、感情的に燃え盛っていた政治的前線、すなわちパキスタン運動に参加するためであった。言語問題では、マハトマ・ガンディーとアブドゥル・ハクが対立していた。ガンジーはインドの共通語として「ヒンドゥスターニー語」を提唱し、アブドゥル・ハクはそれに対しヒンディー語帝国主義の気配を感じ、「ヒンドゥスターニー語」の本当の意味を問いただしていた。

「ヒンドゥスターニー語」などというものは存在しないとアブドゥル・ハクは主張した。バローダ(Baroda)で開催されたインド東洋会議(Indian Oriental Conference)の議長演説(1933年12月)の中で次のように述べている。「社会的な演説や政治的な著作において、ヒンドゥスターニー語に言及する声が多くある。ヒンドゥスターニー語とは何か、それはどこにあるのか。誰がヒンドゥスターニー語で書いているのか?それは日常会話やビジネス以外では存在しない。ヒンディー文学やウルドゥー文学にも見当たらない。ヒンドゥスターニー語は学術的に使われる言語ではない。どの文字で書かれるかによってウルドゥー語もしくはヒンディー語になるのである」(Khutbāt-e ‘Abdul Ḥaq, pp.26-27)。

国民会議が言語に関する以前の姿勢を撤回したとき、アブドゥル・ハクはその問題を再提起した。ラーホールのイスラーム擁護協会(Anjuman Himāyat-i Islām)での会長演説(1936年4月)で次のように述べている。「インド国民会議は、インドの言語はヒンドゥスターン語、それはナーガリー文字、またはペルシア文字で表記するという決議をした。それは賢明なことだが、彼らは実際に異なることを計画していた。………1935年4月、マハトマ・ガンディーはインドールヒンディー語会議(Hindi Samilan)を主宰した。彼らは満場一致でヒンディー語普及のために協力することを決議し、委員会が設立された。………ムンシー・プレームチャンド(Munshī Premchand, 1880-1936)が編集していた月刊『白鳥(Hans)』はその委員会の傘下に入り、………その10月号で編集者は「今やヒンディー語は我々の国の言語となり、マハトマ・ガンディーのような改革者はそれを国の生きた言語にしようと決めた。これまではヒンドゥスターニー語が国の言語であり、議会もそれを公然と受け入れていた。しかし今、このヒンドゥスターニー語はヒンディー語になってしまった」(同上、67-69ページ)。

アブドゥル・ハクは、生ぬるいウルドゥー語促進協会をダイナミックで活気のある組織に変え、文学や言語面だけでなく、政治面でも闘った。アブドゥル・ハクは、民族主義的な理由でウルドゥー語を擁護するだけでなく、クリー・クトゥブ・シャー(Qulī Qutb Shāh, 1565-1612)の詩集(Dīwān)など、非常に珍しいウルドゥー語の写本を発見、編集、出版し、ウルドゥー語文学の歴史に数世紀を加えた。

独立後、パキスタンに移住したアブドゥル・ハクはカラーチーにパキスタンウルドゥー語促進協会を設立した。パキスタンウルドゥー語促進協会は現在も彼の使命を引き継いで研究活動を行っており、非常に貴重な書籍を図書館で保存するとともに研究所を出版している。

はじめに

このブログでは主にウルドゥー語研究全般(語学、文学、歴史、イスラームを含む)に役立ちそうなものを取り上げていきます。また赴くままにカラーチー生活を書き綴ります。

現在取り上げる予定のもの
パキスタンのDawn紙に掲載されているラウフ・パレーフ博士の記事

News stories for Rauf Parekh - DAWN.COM
パキスタンのJang紙に掲載されているムイーヌッディーン・アキール博士の記事https://jang.com.pk/writer/dr-moin-uddin-aqeel
③ヨーロッパやアメリカ、日本、その他地域におけるウルドゥー語研究状況
パキスタン事情全般

①②に関してはウルドゥー語研究の最前線で活躍してきた碩学による寄稿記事の翻訳(どちらも許可取得済)と簡単な解説、③は研究動向のアップデートや忘備録、または過去のプロジェクトについて、④については現在私がカラーチーに在住している関係から、政治経済日常諸々含めた雑多な記録になる予定です。主に①②メインで、③④は気が向いた時にUPします。

よろしくお願いします。