ウルドゥー語研究の家(دار التحقیق اردو)

ウルドゥー語研究&南アジア・イスラーム研究を行なっています。

『ペルシアの讃美歌』「ゲーテにこの本を読んで頂きたかった!」

今回もイクバール生誕日に公開された記事で、イクバール研究の碩学の一人、ムハンマド・ハムザ・ファールーキーの著作を紹介している。

 

Parekh, Rauf. 2020 (November 9).  Literary notes: Zaboor-i-A’jam: ‘I wish Goethe had read this book!’, Dawn.(2022年1月4日閲覧)

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『ペルシアの讃美歌』「ゲーテにこの本を読んで頂きたかった!」

2020年11月9日

ラウフ・パーレーク

イクバールはパキスタンで(第一位ではないにせよ)最も愛されている詩人の一人である。そのため、イクバールに関する記事や書籍は絶え間なく出版されている。その結果、イクバールの著作と生涯に関するほとんどすべての側面は研究され尽くしており、新しい点が明るみに出ることはほとんどない。

 しかし、一部の眼識のある学者は時に知識の宝庫を発見し、その宝庫からイクバールとその生涯に関する希少で隠れた宝石のような情報を掘り起こすことができる。ムハンマド・ハムザ・ファールーキーもまさにそのような学者の一人である。ハムザ・ファールーキーは、イクバールの旅行の再現を試みた『イクバール旅行記(Safarnamah-yi Iqbal)』執筆のために貴重な歴史的資料を調べていた折、著名な学者で歴史家、ジャーナリストとして知られるグラーム・ラスール・メフル(Ghulam Rasool Mehr, 1895-1971)に連絡を取った。メフル氏は彼を指導しながら、ラーホールから発行されているウルドゥー語新聞『革命(Inqilab)』誌のある号を担当するように助言した。メフルは、アブドゥルマジード・サーリク(Abdul Majeed Salik, 1894-1959)と共に『革命』誌の編集者であり、二人ともイクバールと非常に親しかった。『革命』誌の編集者はイクバールを高く評価しており、イクバールの作品に関する記事だけでなく、イクバールの演説、発言、旅行や文学活動の詳細も掲載していたとファールーキー氏は言う。そのため『革命』誌にはイクバールの人生や、1920年代後半から1930年代にかけて亜大陸で彼が果たした政治的役割に関する多くの手がかりが残されている。

 ハムザ・ファールーキーは『イクバール旅行記』を取り組み始め、『革命』誌のファイルに埋もれていたイクバールの生涯に関する貴重な情報を本当に発見した。これらのファイルの一部は、カラーチーにあるパキスタン国立銀行の図書館に保管されていた。この号には、イクバールの多くの詩が掲載されており、その中には過去に出版された作品に含まれていないものもあった。新聞は、イクバールが書いた手紙や、彼の政治思想に関する多くの報道や見解も掲載していた。ハムザ・ファールーキーは、1988年に出版した自著『イクバールの生涯におけるいくらかの隠れた側面(Hayati-i Iqbal ke Chand Makhfi Goshe)』にこれらの珍しい作品を全て収録した。

 しかしファールーキーは、自分の知識を更新し、本を改訂し続けるため、いくつかの追加や修正を行い、現在(2020年)カラーチーのAcademy Bazyaftからこの本の改訂版が出版されている。第2版では『革命』誌に掲載されたエッセイを新たに3本追加し、ファールーキーが新たに注釈を加えたのは言うまでもない。

 これらのエッセイを紹介しながら、イクバールの詩集『ペルシアの讃美歌(Zabūr-e ʿAjam)』が1927年6月に出版され、『革命』誌が1927年7月に『ペルシアの讃美歌』特集号が出版されており、そこに6編のこれまで再録されることのなかった論文が載っていたとファールーキーは述べている。この6編のうち、3編が新装版で再現されている。

 そのうちの1編は、『ペルシアの讃美歌』を紹介し、そのメッセージを説明し、この本の一風変わった名前の背景を語っている。そして、『ペルシアの讃美歌』についてイクバールが述べた言葉が引用されている。「ゲーテにこの本を読んで頂きたかった!」イクバールはゲーテに憧れ、ガーリブとゲーテの間に類似性を見出していた。(イクバールのウルドゥー語詩集)『鈴の音』に収録された「ミルザー・ガーリブ」と題するイクバールの詩は、ガーリブへの豊かな賛辞とゲーテについて語るガーリブの演説を伝えている。

 

ワイマールの花園に汝の友が眠っている

 

 あなたの仲間の歌い手はワイマールの庭園で眠っている(ワイマールはゲーテが埋葬された場所である)。イクバールがゲーテの作品に魅了されていたことを見れば、イクバールが『ペルシアの讃美歌』を通じて伝えたかったメッセージは何か凡そ想像がつくだろう。ゲーテは東洋の詩に多大な影響を受けており、イクバールは『ペルシアの讃美歌』を通じて東洋の目覚めのメッセージを伝えようとしていた。

 『革命』誌は1927年4月21日にアブドゥルマジード・サーリクとグラーム・ラスール・メフルによってラーホールで創刊され、1949年10月17日に廃刊になったとハムザ・ファールーキーは記している。ハムザ氏の本では、1927年4月から1938年4月までの期間を収録している。しかし彼が改訂版のための資料収集のために国立銀行図書館を訪問した時、「図書館に収蔵されている『革命』誌のファイルの90%はひどく損傷しているか、消失している」ことに気づき、「虫に食われたか、職員の怠慢の犠牲になったのか」わからないと報告しており、胸が痛む思いである。なんという損失であろうか。

 本書は、イクバールの文学団体との関わり、旅、友人、同時代人、文学活動・社会活動など、彼の人生と作品に関する詳細について述べている。重要な章として、マウラーナー・フサイン・アフマド・マダーニー(Hussain Ahmad Madani, 1879-1957)がラホールに到着して演説し、その結果「国家は宗教ではなく国によって作られる」と発言して不穏な事態になったことを伝える『革命』誌に掲載された記事を再録している(281-285頁)。イクバールの反応は今や歴史の一部となっている。

 本書は『革命』誌に掲載された記事を時系列に再現したものである。イクバールにまつわるスピーチや出来事を忠実に再録している。注釈もこの本の価値を高めている。

 ムハンマド・ハムザ・ファールーキーはカラーチー在住のベテランの研究者で、イクバールやグラーム・ラスール・メフル、パキスタンインド亜大陸の政治史が専門とし、数多くの研究論文、ペンスケッチ、研究作品を執筆している。彼の旅行記回顧録も文壇で好評を博している。

『さて何をなすべきか、おお、東洋の諸民族よ』なぜイクバールは1000ルピーの小切手を返還したのか

ラウフ・パーレーク博士はイクバールの誕生日である11月9日前後に毎年イクバールに関する記事を投稿している。今回は昨年2021年に書かれたイクバールのペルシア詩集に関する記事を紹介する。

 

Parekh, Rauf. 2021 (November 8). Literary Notes: ‘Pas Che Bayad Kard’: why did Iqbal return a cheque for Rs1,000?, Dawn.(2022年1月3日閲覧)

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『さて何をなすべきか、おお、東洋の諸民族よ』なぜイクバールは1000ルピーの小切手を返還したのか

2021年11月8日

ラウフ・パーレーク

 

 『さて何をなすべきか、おお、東洋の諸民族よ(Pas cheh bāyad kard, ae aqwām-e sharq)』アッラーマ・ムハンマド・イクバールによるペルシア語で書かれたマスナヴィー詩である。1936年に初版が出版され、その初版にはイクバールの別のペルシア語マスナヴィー詩集である『旅人(Musāfir)』も含まれていた。

 『旅人』は1934年に初版が出版され、それは1933年に訪問したアフガニスタンへの旅の成果であった。アッラーマ・イクバールと(イスラーム学者の)サイイド・スライマーン・ナドヴィー(1884-1953)、(ムスリムへの西洋近代教育を推し進め、アリーガル・ムスリム大学を創設したサイイド・アフマド・ハーンの孫である)ラース・マスード(1889-1937)はアフガニスタンの教育政策立案のために、〔当時の〕統治者であったムハンマド・ナーディル・シャー(1883-1933)に招かれた。これら二つのマスナヴィー詩が一つにまとめられて出版された理由として、「『さて何をなすべきか』が『旅人』の結末編である」と複数の学者は言っている。

 Yousuf Saleem Chishtiはかつて以下のように述べている。「もしイクバールの全ての詩を本体とするならば、『さて何をなすべきか』はその心臓部にあたる。『さて何をなすべきか』はイクバールのメッセージをほんの530の対句でまとめている。そこではムスリム諸国が直面する非常に重要な問題を論じ、搾取的な政治経済政策をとる西洋を厳しく批判しつつも、見事な詩的手法と美しい言葉でまとめられている。

 『さて何をなすべきか』 は常に知識人たちを刺激し続けている。Yousuf Saleem Chishtiは1957年にテキストの翻訳なしに『旅人』と『さて何をなすべきか』を一つの版にまとめて、ウルドゥー語による詳細な注釈を附して出版した。

 Ilahi Bakhsh Akhter Awanは1960年に『さて何をなすべきか』のウルドゥー語訳とその注釈をペシャーワルから出版した。Rafiq Khawarは1977年にウルドゥー語韻文訳を出版、Khwaja Hameed Yazdaniは学生向けの注釈を2004年に出版した。彼の注釈は1999年に簡易版が名前を変えてすでに出版されていた。

 インドではウルドゥー語による韻文完訳がSyed Ahmed Isaarによって2006年に出版されている。このイクバールによるマスナヴィー詩集は英語及びパンジャービー語にも訳されている。

 そして『さて何をなすべきか』の新たな韻文訳がちょうど出版された。Tehseem Firaqi博士による『今何をなすべきか、おお、東洋の諸民族よ(Ab kyā karnā chāhīye, ae aqwām-e sharq)』はラーホールのイクバール・アカデミーから出版された。自由詩を韻文化し、Firaqi博士による学術的な前書きとともに、ペルシア語の原文も掲載している。

 イクバールがこの偉大な作品を生み出した時代的背景を以下のように要約している。「外国勢力がパーキスターン・インド亜大陸を支配し、社会の多くが精神的にその奴隷制を受け入れていた歴史的状況においてイクバールは出現した」と序文でフィラーキーは言う。『東洋のメッセージ(Payām-e Mashriq)』が出版された13年後に『さて何をなすべきか』が出現したことは偶然ではなく、東洋は世界の古代文明の揺籃の地であり、全ての神聖な宗教は東洋に由来していることと深くつながっている」とフィラーキーは付け加える。イクバールは東洋の国々に対して団結し立ち上がるよう求めている。

 イクバールはアラブ諸国に対し、西洋列強から「貯水池(hauz)」〔すなわち油田〕を遠ざけておくよう勧めている。しかし、西洋諸国は石油を含むすべての富とともに東洋を植民地化しただけでなく、現在では〔西側が〕世界銀行国際通貨基金という名を借りて、新植民地主義が顕在化しているとフィラーキーは言う。

 『さて何をなすべきか』が強調するもう一つの側面は、唯物論精神主義の衝突である。東洋の復活は精神主義にあるとイクバールは言う。 『イスラームにおける宗教思想の再構築』において、道徳と倫理を強調しながら「今日のヨーロッパは人間の倫理的進歩を阻む最大の障害物である」と述べている。

 また、イクバールを苦しめたであろう不幸な出来事についても、フィラーキーは記している。それは『さて何をなすべきか』の出版直後に起こったことである。Dr Riaz Ahmedの言葉を引用して、『さて何をなすべきか』の出版の約1年前、イクバールは病気と財政問題に悩まされていた。イクバールの息子Aftab Iqbalとイクバールの親友Sardar Umrao Singh Gul Sherは、デカンのハイデラバード藩王国の要職にあったアクバル・ハイデリー卿(1869-1941)に手紙を出した。しかし、ハイデリー卿からの返答は、イクバールが『さて何をなすべきか』で西洋を厳しく批判したため、デカンではイクバールに対する何らかの「審理」が行われており、デカンからの支援は不可能であることが仄めかされていた。「審理」を視野に入れつつ、イクバールはハイデリー卿から送られた1000ルピーの小切手を返還した。イクバールは、ハイデリー卿に宛てた詩の中で「施し(ザカート)」と呼ばれるものを受け取ることを軽蔑して拒否した。その小切手は、1938年1月7日にイスラーム文化協会によって祝われた「イクバールの日」の機会に送られたものであった。その詩は『ヒジャーズの贈り物』に収められている。

 フィラーキーの前書き自体がイクバールについて書かれた注目すべき名文である。

真正で読みやすいイクバールの伝記が求められている

いつの間にか2022年になってしまった。昨年は本腰を入れて取り組むことができなかったので、2022年の目標は本ブログで100本書くことにしたい。3日坊主で終わらないことを祈るが、今後数回にわけてパキスタンの建国詩人ムハンマド・イクバール(1877-1938)を中心に紹介したい。本記事は13年前のものであり、イクバールの息子ジャーヴェード・イクバール(1924-2015)はすでに故人となっているものの、パキスタンにおけるイクバール研究史を知るうえで有益であることには変わりはない。

 

Parekh, Rauf. 2009 (November 9).  An authentic, readable biography of Iqbal is needed, Dawn.(2022年1月2日閲覧)

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真正で読みやすいイクバールの伝記が求められている

2009年11月9日

ラウフ・パーレーク

オスカー・ワイルドは、伝記というジャンルについて以下のように語っている。「かつて私たちは我々の英雄をよく美化したものだった。現代の方法は彼らを低俗化するためにある。偉大な書籍の廉価版は喜ばしいかもしれないが、偉人の廉価版は断固嫌悪する」

 このことは、おそらくワイルドの時代よりも〔私たちの生きている〕現代においてより真実味が増している。そして、それはどの偉人よりもイクバールの伝記において真実味を帯びている。特に昨今、イクバールの遺産を破壊しようとする動きがあり、彼の人生や哲学、詩に関する多くの不適切な疑問が話題となっている。カラーチーで出版されている月刊誌Sahīは、特にイクバールの人格とイメージを破壊しようと試みている。イクバールはこれらの試みに対して無傷であったが、これら〔の出来事〕はイクバールの生涯と思想に関する真正な解説を執筆する必要性を強調した。

 イクバールとガリーブはウルドゥー詩人の中で〔伝記が〕最も執筆されている二人であるが、イクバールの真正で読み応えのある伝記はまだ作られていない。これまでに書かれた伝記は何らかの点で不足がある。中には、イクバールを俗化させようとしたり、イクバールの生涯に関して誤解を生じさせたりしているものもある。一部の不謹慎な人々は、イクバールの青年期に関する噂のようないくつかの誤解を未だに信じている。確かに、イクバールは天使ではありません。彼は人間でした。Samuel Johnsonはかつて以下のように述べた「人が賛美歌を書く時、悪徳を見えないようにすることができる。しかし生涯を書くと公言するならば、実際にそうであったように表現しなければならない」加えて、イクバールの生涯を書く際以下の点を心に留めておく必要がある。彼は単なる詩人や単なる哲学者ではなく、亜大陸ムスリムのための新たな国家の哲学的基礎を築いた人物の一人であり、彼の伝記はそれを反映していなければならない。

 これまでに書かれたイクバールの伝記をざっと見てみよう。〔彼に関する伝記は〕イクバールの生涯を垣間見るための伝記的なエッセイの形による散発的な努力から始まる。Makhzan誌の編集者アブドゥル・カディールが初めてそのような記事を書き、ラクナウーのKhadang誌の1902年5月の号に掲載された。その後、Muhammad Deen Fauq、Sir Zulfiqar Ali Khan、Moulvi Ahmed Deenらが生前のイクバールの生涯について記事を執筆したが、生前のイクバールの生涯を書籍で長々と記述した伝記はない。その理由の一つは、イクバールがそのような考えを推奨せず、自分の人生には他人の関心や学びになるような出来事がないと言っていたからである。しかし、ジャーヴェード・イクバールが『生き生きした流れ』で述べているように、イクバールは自らの思想や哲学が徐々に進化していく様子を描きたかったが、それができなかったのである。

 ラフィーウッディーン・ハーシュミー教授によれば、1932年にラーホールの雑誌『思想の転変(Nairang-e Khayal)』は、イクバール特集号を発行した。1938年にイクバールが亡くなると、同年、彼に関する最初の本が出版された。それは、Chiragh Hasan Hasratによって書かれたものである。Hayat-e IqbalというタイトルでラーホールのTaj Company, から出版された。1939年、Muhammad Hussain KhanがIqbalを、Muhammad Tahir FarooqiがSeerat-e Iqbalを執筆した。同年、Abdullah Anwer BaigがThe Poet of The Eastを執筆した。1947年には、Schedanad SinhaのIqbal: The Poet and His MessageがAllahabadから出版された。1947年にBombayから出版されたAtiya FayzeeのIqbalは、学生時代のイクバールのヨーロッパでの明るくのんびりとした生活を垣間見ることができる。この本には、いくつかの貴重な写真と彼女に宛てたイクバールの手紙が含まれていた。

 Abdul Majeed SalikAbdus Salam Khursheedがイクバールの真正な伝記を書くと期待されていたが、両者が書いた本は結果としてその期待に応えることができなかった。しかし、Faqir Syed WaheeduddinSyed Nazeer NiaziKhalid Nazeer Soofi, Abdullah Qureshi, Abdullah Chughtai, Hameed Ahmed Khan, Saeed Akhter Durrani, Iftikhar Ahmed Siddiqui, Hamza Farooqi, Muhammad Haneef Shahid, Sabir Kalorviなどのイクバール学者によって、イクバールに関する比較的深いレベルまで伝記的詳細を伝える非常に有用で興味深い本が執筆された。

 1977年は、政府レベルでイクバール生誕100周年が記念された年であり、文学界もまたイクバールに関する書籍や記事をかつてないほど大量に目にした年でもあったため、その分水嶺となる年として記憶されることになるであろう。そして現在では、イクバールに関する新書や記事が出版されない年はない。しかし、その多くはイクバールの芸術、あるいは彼の人生と芸術の両方について論じる傾向がある。そして、イクバールの伝記として意図された本は、イクバールの全生涯をカバーしていないもの、詳細が欠けているもの、イクバールとの会話のみを記録したもの、不正確な情報が入り込んでいるものなど多くの点で不足があった。これらの本は研究者に良い資料を提供したが、イクバールの生涯の全体像を示す、良い、詳細な、真正の伝記の必要性を痛感させた。

 1979年に初版が出版されたジャーヴェード・イクバール(Javed Iqbal, 1924-2015)の『生き生きした流れ(Zindah Rūd)』は、そのギャップを埋めるものであった。イクバールの息子によって書かれたこの伝記は、最も信頼でき、最も詳細で、最も正確であると即座に評価され、現在では第4版まで出版されている。この伝記は、ある側面で欠けていると言う人も多いが、いまだに他の追随を許していない。『生き生きした流れ』の批判的研究は、ラシード・ハミード(Rashid Hameed)博士の『『生き生きした流れ』の学術的批評研究』でなされている。本書は、不正確なスペルなど、些細なことに重きを置きつつも、いくつかの弱点を的確に指摘しており、もしそれが解決されれば、本書の価値は間違いなく高まるであろう。ハミード博士は、例えば、ジャーヴェードがイクバールの手紙など、利用可能な基本的かつ原典のいくつかを十分に考慮できなかったことを正しく指摘している。ハミード博士によれば、ジャーヴェードはイクバールの本格的な研究を行うために必要な全ての基本的かつ原典を利用できる特別な立場にありながらそうすることができなかったと述べている。

 『生き生きした流れ』は、日付や出来事に関する限り、誤りや不正確さがないわけではありません。また、ジャーヴェード・イクバールは、イクバールがカーディヤーニー(アフマディーヤ)に傾倒していた、あるいは同調していたという印象に対して、事実は全く逆であるため、十分に力強く反論することができなかったと述べている。(イクバールの甥で、カーディヤーニーに改宗したEjaz Ahmedもその著書Mazloom Iqbalの中で誤った印象を与えている。)またハミード博士の印象では、ジャーヴェードの文体にはメリハリがなく、時に無骨に見えたようである。実際、イクバールの伝記としては『生き生きした流れ』が圧倒的に優れており、本書全体が読みやすさに欠けているという印象を与えるのは不当であろう。この本の大部分は非常に明晰であり、時には非常に興味深いものである。ラフィーウッディーン・ハーシュミー教授が『パキスタンにおけるイクバール学の研究1947-2008』で述べているように、「ジャーヴェードは伝記作家としての責任を非常によく果たし、『生き生きした流れ』はイクバールの人生の重要な事実と側面を詳細と必要な背景とともに記述したバランスのとれた客観的伝記である」。イクバールの人生が偉大な人物のものであったことを感じさせてくれる」。イクバールの最近の伝記で特筆すべきは、Khurram Ali ShafiqueDama Dam Ravaan Hai Yam-e Zindagiは5部構成で書かれており、まだ未完成である。ラーホールのAlhamraから出版され、完全に出版されれば、イクバールの伝記文献に非常に重要な追加となることは間違いない。さらに昨年、イスラマバードにあるパキスタン文学アカデミーの「パーキスターン文学の水準」シリーズとして別の伝記が出版された。著名なイクバール研究者であるラフィーウッディーン・ハーシュミー教授によって書かれた『イクバール:人格と技巧』というタイトルで出版されている。一般人や学生を対象としており、イクバールに関するいくらかの誤解を取り除くことを目的としている。本書の特徴は、他の本では通常見られないような、ある種の詳細や出来事を語っている点にある。

 ジャーヴェード・イクバールが価値のある自著の第5版、改訂版の出版が期待される。

 

 

『源氏物語』のウルドゥー語完訳

先月『源氏物語』のウルドゥー語完訳が出版された。計1128ページ、昨今日本で流行りの鈍器本。それ以上にこの超大作の完訳(英語からの重訳ではあるものの)がウルドゥー語で出版されたこと自体奇跡かもしれない。*1

本文は日本のノーベル文学賞作家をウルドゥー語で紹介した翻訳家の故バーカル・ナクヴィー(Baqar Naqvi)氏によるものである。初稿を書き上げた後、本書の出版を見ることなく2019年にお亡くなりになられた。その後、日本・パキスタン文学フォーラム(カラチ)の創設者の一人フッラム・スヘイル氏が本文の修正と注釈を加えて、労苦の末出版に漕ぎ着けたそうである。

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岩波文庫と比較して、この偉大なる鈍器本が伝わるだろうか、、、

残念ながら私はそこまで古典の造詣が深くないので、日本語原文と比較してこのウルドゥー語訳を批評することができない。翻訳に際して、『源氏物語』を世界的に有名にしたアーサー・ウェイリー訳と川端康成の『雪国』を行ったことで知られる エドワード・サイデンステッカーの訳を参照しているとのこと。

私の『源氏物語』認識は2009年のアニメ「源氏物語千年紀Genji」で終わっている。与謝野晶子谷崎潤一郎田辺聖子瀬戸内寂聴の現代語訳くらいは読んでおかねばと思った次第である。

Parekh, Rauf. 2021 (September 13).  A woman writer’s thousand-year-old Japanese novel translated into Urdu, Dawn.(2021年9月16日閲覧)

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千年前の日本人女性による小説のウルドゥー語

2021年9月13日

ラウフ・パーレーク

源氏物語』は、異論はあるもののしばしば「世界初の小説」と呼ばれることが多い。この日本語の小説は1021年頃、平安時代の高位で皇室の侍女であった紫式部によって書かれた。つまり世界初の小説家は女性だったのである!しかし「紫」は本名ではなく、光源氏に次ぐ主要な人物(紫の上)の名前にちなんで、おそらく彼女のアイデンティティを守るためにつけられた名前である。

原文で使われているのは、古語であり一般の日本人にも理解するのが非常に難しい言葉が使用されているため、女流歌人与謝野晶子が20世紀初頭に現代日本語に翻訳した。
1880年代に末松謙澄による源氏物語の部分英訳が出版されたものの、完訳は〕イギリスの東洋学者アーサー・ウェイリー(Arthur Waley, 1889年-1966年)によって英語化され、1925年に第1巻、1933年に最後の第6巻が出版された。この小説が〔欧州を超えて〕世界的により広く知られるようになったのは、日本の小説家、川端康成による1968年ノーベル賞受賞演説においてこの小説に言及したことがきっかけである。
1976年には、日本学者のエドワード・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker, 1921年-2007年)による英語完訳が出版されている。。その後、いくつかの英訳が出ている。

この小説では、光源氏の人生と、彼の様々な女性との数々の恋愛を描いている。光源氏の身分は皇子であったが、異母兄であった[朱雀]帝ににより低い地位に降ろされ、流刑にされた。最終的に光源氏は赦され、当時の日本の首都、京都に戻ってくる。〔建前上は光源氏の父親、桐壺帝の第10皇子で〕実の彼の息子(非嫡出子)[冷泉帝]は光源氏が実の父親であることを知りながら天皇となる。後に光源氏最愛の紫の上が亡くなり、ある章では光源氏の死が示唆されている。

しかし、この小説は突然終わりを迎え、未完のまま終わってしまったような印象を抱くかもしれない。数年前に完結章が見つかったとの噂もある。エドワード・サイデンステッカーによれば、作家は終わりを意図せず、書けるだけ書き続けたとする。しかし在カラチ日本国総領事の磯村利和氏は、この本の簡単な紹介文の中で、より妥当な説明を示唆している。〔作者が生きた〕当時は紙が非常に不足していたため、紙を手に入れるたびに執筆を再開していたのである。これが完成するまでに時間がかかった理由の一つである。非常に面白い!

この小説はフィクションではあるが、11世紀の日本の皇族や宮廷人の生活を直接描いたものであり、作者は御所の雰囲気や[宮中の]張り巡らされた陰謀をよく知っていた。現代の読者は約1000年前の日本の貴族の生活を〔本書から〕うかがい知ることができる。

源氏物語』を一番はじめにウルドゥー語に翻訳したのは、〔インドの元アッラーハーバード大学ウルドゥー語学科長で進歩主義運動を代表する〕著名な文芸評論家であったサイイド・エーフティシャーム・フサイン(Ehtesham Hussain)氏である。彼は1971年に全54章のうち最初の9章を要約したウルドゥー語版を出版している。そしてこの度、全54章がウルドゥー語に翻訳された。

著名な翻訳家・詩人であったバーカル・ナクヴィー(Baqar Naqvi, 1936-2019)氏は、晩年『源氏物語』の翻訳を始め、第一稿を作成していた。そして『源氏物語』をウルドゥー語に翻訳することを彼に提案したフッラム・スヘイル氏に、その原稿を送っていた。しかし、ナクヴィー氏は2019年に亡くなり、フッラム・スヘイル氏は第一稿の最後の仕上げを一人で行わざるを得なかった。

英訳の助けを借りながら、スヘイル氏は初稿を何度も修正し、当初1300ページあった文章を1100ページにまとめることができた。しかし、あまり知られていない日本の文化的歴史的背景の部分はウルドゥー語読者にとって難解であるため、注釈が必要であると彼は感じた。そこで作業を再開し、非常に有益で情報量の多い脚注を付け加えた。

序文を記している〔日本で〕ウルドゥー語を長年教授・研究している大阪大学山根聡教授は、源氏物語のエッセンスを〔以下のように〕簡潔に表現している。
「この小説には、恋愛、結婚、母の愛、仕事、キャリアにおける成功と失敗など、現代文学にも通じるテーマを有している。さらに重要な事として、この小説では善悪の区別をつけていないという事実がある。本書は道徳的、教訓的な作品ではなく、普通の人間の生活を描き、その心理状態、弱さ、無力さ、怒り、幸福、嫉妬、羨望などを如実に反映している作品である」

〔元〕在パキスタン日本大使の松田邦紀氏は、「この名作は、平安時代初期の皇室、貴族、日常文化を読者に紹介する素晴らしい入門書である」と紹介している。

このウルドゥー語完訳版はカラーチーのラーヒール出版社から出版されている。

*1:源氏物語』をはじめとする海外における平安文学の研究状況を知るサイトとして、「翻訳史-海外平安文学情報」がある。

優れたウルドゥー語研究者たち

本記事では主にパキスタン・インド分離独立以降に活躍したウルドゥー語学者を紹介した記事の訳である。興味深いのはインド側の研究者が多く取り上げられている点で、パキスタン側の研究者もインド側の研究者との学術的な交流または参照が頻繁に行われていたことが伺える。分離独立以降のウルドゥー語研究の発展はパキスタン(またはインド)一国だけでは為しえなかったと言えるかもしれない。

本記事に言及されていない有名な学者も多数いるので、今後ラウフ・パーレーク博士の記事の翻訳を通じて紹介できればと考えている。

 

Parekh, Rauf. 2020 (November 3).  Literary Notes: Some of Urdu’s Great Research Scholars, Dawn.(2021年9月11日閲覧)

 

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優れたウルドゥー語研究者たち

2020年11月3日

ラウフ・パーレーク

 

我々は研究の価値を理解していない社会にいる。科学技術研究は我々の国である程度実を結ぶかもしれない。しかし文学研究や言語研究の大部分は感謝されない仕事である。それでもウルドゥー語の研究は長い道のりを歩んできた。知の巨人たちや後進の研究者たちの先駆的な努力がなければ、今日におけるウルドゥー語研究[の隆盛]はあり得なかっただろう。ウルドゥー語の偉大な研究者の中には以下のような人物たちが挙げられる。

 

マウルヴィー・アブドゥル・ハク(Maulvī Abdul Ḥaq, 1870-1961) 

ウルドゥー語研究の先駆者の一人であるマウルヴィー・アブドゥル・ハクは、多方面[政治やウルドゥー語促進協会の運営等]での戦いを強いられていた。しかし、研究の観点から見ると、マウルヴィー・サーハブ(彼はしばしば尊敬の念を込めてこう呼ばれている)は、ダッカニー[・ウルドゥー]文学に関する研究や(ここでは名前を挙げられないほどたくさんある)ウルドゥー文学の古典テクスト編集で記憶されるだろう。彼がいなければ、多くの写本が跡形もなく消えていただろうし、我々の文学・言語史の多くの部分も消えていただろう。

 

ハーフィズ・マフムード・シーラーニー(Ḥāfiz Maḥmūd Shīrānī, 1880 - 1946) 

ハーフィズ・マフムード・シーラーニーはウルドゥー語テキスト批評の先駆者として知られる。彼は希少な文献や資料を驚くほど正確に把握していたため、彼の結論に異議を唱える者はほとんどいなかった。彼の驚異的で神話破りを行った研究として、『4人の托鉢スーフィーの物語(Qiṣṣa-yi Chahār Darvīsh)』(ペルシア語)*1がアミール・フスラウ(Amīr Khusrau, 1253-1325)の著ではない事実をテキスト批評から証明し、また『創造主(Khāliq-i bārī)』をアミール・フスラウの著作として見なすことにも疑問の影を投げかけたことが挙げられる。またムハンマドフサイン・アーザード(Muḥammad Ḥusain Āzād, 1830-1910)の伝説的な[本格的なウルドゥー詩史の研究書]『生命の水(Āb-e Ḥayāt)』*2を確かな証拠に基づいて粉々にし、彼の「歴史的事実」の多くが作り話に過ぎないことを証明した。彼にはウルドゥー語研究よりペルシア文学研究業績が豊富にある。彼が提唱したウルドゥー語パンジャーブ起源説は今日間違っていることが証明されているが、シーラーニーは数少ない偉大な研究者であり、最も評価されている研究者の一人である。

 

マスウード・ハサン・リズヴィー・アディーブ(Masʿūd Ḥasan Riz̤vī Adīb, 1893-1975) 

マスード・ハサン・リズヴィ・アディーブは、パキスタン・インド分離独立以前に古典ウルドゥー文学のテキストを発見、編集した研究者で、独立後もその研究活動を継続し、さらに優れた研究成果を発表した。ミール・タキー・ミールの『ミールの恩恵(Faiz-i Mīr)ファーイズガザル詩集、ガーリブによる珍しい詩や散文などの貴重な作品を発見し、編集した。

 

ムヒーウッディーン・カーディリー・ゾール (Muḥiuddīn Qādrī Zor, 1905-1962)

ムヒーウッディーン・カーディリー・ゾールは、デカン地方のウルドゥー文学と言語に関する多大な研究を行ったことから、しばしば「ダカニーの父(Baba-e Dakanī)」と呼ばれている。彼はデカン地方の文学に関する研究で有名で、ウルドゥー語の音声学や歴史的言語学に関する研究も称賛に値する。ウルドゥー語傑作小品集(Urdū shah pāre) 、クリー・クトゥブ・シャーの詩集デカン地方のウルドゥー語文学史に関する著作がある。

 

カーズィー・アブドゥルワドゥード(Qāzī Abdulwadūd, 1896-1984

彼は、ウルドゥー語研究者の中でも最も恐れられている人物の一人で、博識で徹底しているだけでなく、率直で忌憚のない意見を持っていました。同時代の研究者はもちろんのこと、ガーリブやマウルヴィー・アブドゥル・ハクのような[ウルドゥー語学の]知の巨人たちの作品の不正確さを指摘することも躊躇しなかった。彼の著書や論文の数は非常に多く、彼が百科事典に匹敵する知識量を有していたことを物語っている。

 

イムティヤーズ・アリー・ハーン・アルシー(Imtiyāz Alī Khān Arshī, 1905-1981) 

編集、編纂の水準を飛躍的に高めた研究者としてラームプール(インド)出身のイムティヤーズ・アリー・ハーン・アルシーがいる。彼が編集、注釈を加えたガーリブのウルドゥーガザル詩集は、最も綿密で最も信頼できるものである。彼は韻律と修辞学に関する書物『雄弁さの規則(Dastūr al-Fasāḥat)』を発見し、学術的な序文をつけて編集した。本書の編集出版自体[重要な]研究である。

 

ギヤーン・チャンド・ジャイン(Gian Chand Jain, 1923-2007)

ギヤーン・チャンド・ジャインは『一つの言葉、二つの文字、二つの文学(Ek Bhāshā, do likhavat do adab)』で物議を醸したことがあるが、彼のウルドゥー語研究への多大な貢献は否定できない。

彼の著作はガーリブ言語学、そしてウルドゥー文学史に関連したものが多く、それらは偉大な他のウルドゥー語研究者と並んで彼の地位を保証するものである

 

ラシード・ハサン・ハーン(Rashīd Ḥasan Khan, 1930-2006)

彼はウルドゥー文学古典のテキストを編集し、注釈を付けた最も優れた学者の一人である。彼のテキストは貴重な写本や最古の出版物に基づいており、完璧な正確さを誇っている。文学研究は彼の得意とするところであるが、彼が得意とするもう一つの分野は正書法である。彼の著書『ウルドゥー語正書法(Urdū imlā)』は、この分野で最も参照されている書物であるが、この問題について彼と異を唱える学者もいる。

 

ジャミール・ジャーリビー(Jamīl Jālibī, 1929-2019) 

ジャミール・ジャーリビーは偉大な文学史家で、彼の4巻本の『ウルドゥー文学史(Tārīkh-i adab-i Urdū)』はウルドゥー文学史の記念碑的な著作として知られる。彼は約40年の歳月をかけて、4,700ページに及ぶ全4巻の歴史を書き上げた。本書はあらゆるウルドゥー文学史の中で最も包括的で最も信頼できるものである。

これに加えてウルドゥー語の最古の文学作品として知られる600年前の写本『カダムラーオ・パダムラーオ(Kadam Rāo Padam Rāo)*3の校訂、出版を行っており、これらの重要な業績は後世の記憶に残るだろう。

 

紙面の都合上残念ではあるが、グラーム・ムスタファ・ハーン(Ghulam Mustafa Khan, 1912-2005) 、アブドッサッタール・スィッディーキー(Abdus Sattar Siddiqi, 1885-1972)、サイイド・ムハンマド・アブドゥッラー博士(Dr Syed Abdullah, 1906-1986)、 ワヒード・クレイシー(Waheed Qureshi, 1925-2009)、ナズィール・アフメド(Nazir Ahmed, 1915-2008)、マーリク・ラーム(Malik Ram, 1906-1993)、ムシフィク・フワージャ(Mushfiq Khwaja, 1935-2005)など、他の偉大な研究者の名前をここで挙げることができなかった。

*1:ウルドゥー語における最初期の出版物であるミール・アンマンの『春と園(Bāgh o Bahār)』(1802)は、『4人の托鉢スーフィーの物語』の翻訳である。

*2:アーザードの『生命の水』に関しては大阪大学言語文化研究科の松村耕光名誉教授が数多くの論考を発表している。

*3:『カダムラーオ・パダムラーオ』に関しては以下の論考の記述が参考になる。北田信「ウルドゥー文学前史:南インドのウルドゥー語文献」『イスラーム世界研究』第7巻(2014). pp.154-156. 

ヒンディー語、ウルドゥー語、ヒンドゥスターニー語、そしてマウルヴィー・アブドゥル・ハク

まず、本ブログにて記事翻訳を思い立ったきっかけは、以前からウルドゥー語に関連した情報発信を考えており、今年の6月頃にアキール博士の大手ウルドゥー語新聞社Jang掲載記事を見た時である。ただそこまでネットに出回っているアキール博士の新聞記事は少ない(論考は結構ある)ので、パキスタンの大手英字新聞社DawnのRauf Parekh博士の記事も訳そうと考えたのが始まりである。Rauf Parekh博士の記事は10数年分の記事がたまっているので簡単にネタが尽きない、むしろ終わりが遠くに見える。ペースをつかむまで不定期投稿になるとは思いますが、よろしくお願いします。

そして最初はやはりウルドゥー語の父アブドゥル・ハクについて。ウルドゥー語研究の礎を築いた人物であり、東パキスタンベンガル語公用語化に反対したことでも知られる。記事では主にウルドゥー語促進協会に触れつつ、ウルドゥー語ヒンディー語論争を主題にアブドゥル・ハクの主張を簡潔にまとめている。

 

Parekh, Rauf . 2021 (August 16). Literary Notes: Hindi, Urdu, Hindustani and Moulvi Abdul Haq, Dawn.(2021年9月9日閲覧)

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ヒンディー語ウルドゥー語、ヒンドゥスターニー語、そしてマウルヴィー・アブドゥル・ハク

2021年8月16日

ラウフ・パーレーク

今からちょうど60年前の1961年8月16日、ウルドゥー語の父(Bābā-e Urdū)と呼ばれるマウルヴィー・アブドゥル・ハク(Maulvī ‘Abdul Ḥaq, 1870-1961)氏が亡くなった。

アブドゥル・ハクは1912年にウルドゥー語促進協会(Anjuman-i Taraqqī-yi Urdū)の事務局長となり、約半世紀にわたってウルドゥー語の普及に尽力してきた人物である。

ウルドゥー語促進協会は、亜大陸で近代教育を推進したサイイド・アフマド・ハーン(Sayyid Aḥmad Khān, 1817-1898)が1886年に創設したムハンマダン教育会議(Muhammadan Educational Conference)の流れを汲んでいる。

1905年にインド国民会議ベンガル分割へ抗議したことを受け、ムハンマダン教育会議は1906年ダッカ会議で、最後までパキスタン[独立]のために戦い、勝利した政党である全インド・ムスリム連盟(All India Muslim League)の結成を決めた。すなわちウルドゥー語促進協会だけでなく全インド・ムスリム連盟もムハンマダン教育会議から生まれたのである。

ウルドゥー語は、ヒンドゥー教復興主義者たち[=アーリヤ・サマージ]によって「ムスリムの言語」とタグ付けされてきたが、ウルドゥー語を知っている人や話せる人は、決してそのような馬鹿げた主張をしてこなかった。ファルマーン・ファティフプーリー(Farman Fatehpuri)博士によれば、ヒンディー語ウルドゥー語論争は1857年以降に表面化し始め、1860年代に一部のヒンドゥー教指導者やヴァーラーナシーやイッラーハーバードに所在していたヒンドゥー組織が、公用語ウルドゥー語から多数派の言語であるヒンディー語に置き換えることを要求していた。この柔軟性に欠けた姿勢は、サイイド・アフマド・ハーンのような穏健で平和主義のムスリムにかの有名な「二民族論(Two-Nation Theory)」を綴らせることを強いた。

ヒンディー語ウルドゥー語論争は、見方によればインドにおけるムスリムナショナリズムを誕生させ、パキスタンへの道を開くことになる全インド・ムスリム連盟とムハンマダン教育会議の結成につながった。ゆえにウルドゥー語パキスタン創設に重要な役割を果たしたのである. (Hindī Urdū Tanāzaʿ, 1977, pp. 105-153).

ムハンマダン教育会議は当初、教育促進のための3つの委員会を構成し、「ウルドゥー語促進部(Shoʻba-yi Taraqqī-i Urdu )」はその附属機関であった。しかし、ウルドゥー語を普及させるためには、独立した組織、すなわち「アンジュマン(anjman)」(文字通りの意味での集会や協会)の必要性を感じ、1903年に「ウルドゥー語促進部」は「ウルドゥー語促進協会(Anjuman Taraqqī-i Urdu)」と改称された。シブリー・ノーマーニー(Shiblī No‘mānī, 1857-1914)が初代事務局長となり、事務所はアリーガル(Aligarh)に置かれた。1912年にアブドゥル・ハクが事務局長を引き継いだ当時、ウルドゥー語促進協会はあまり功績を残せなかった。アブドゥル・ハクは、デカンの支配者の庇護を受けて、1913年に事務所をアウランガーバード(Aurangabad)に移した。1938年、名称に「ヒンド」を付け加え、デリーに事務所を移転した。これはウルドゥー語普及のためにより効果的な役割を果たし、感情的に燃え盛っていた政治的前線、すなわちパキスタン運動に参加するためであった。言語問題では、マハトマ・ガンディーとアブドゥル・ハクが対立していた。ガンジーはインドの共通語として「ヒンドゥスターニー語」を提唱し、アブドゥル・ハクはそれに対しヒンディー語帝国主義の気配を感じ、「ヒンドゥスターニー語」の本当の意味を問いただしていた。

「ヒンドゥスターニー語」などというものは存在しないとアブドゥル・ハクは主張した。バローダ(Baroda)で開催されたインド東洋会議(Indian Oriental Conference)の議長演説(1933年12月)の中で次のように述べている。「社会的な演説や政治的な著作において、ヒンドゥスターニー語に言及する声が多くある。ヒンドゥスターニー語とは何か、それはどこにあるのか。誰がヒンドゥスターニー語で書いているのか?それは日常会話やビジネス以外では存在しない。ヒンディー文学やウルドゥー文学にも見当たらない。ヒンドゥスターニー語は学術的に使われる言語ではない。どの文字で書かれるかによってウルドゥー語もしくはヒンディー語になるのである」(Khutbāt-e ‘Abdul Ḥaq, pp.26-27)。

国民会議が言語に関する以前の姿勢を撤回したとき、アブドゥル・ハクはその問題を再提起した。ラーホールのイスラーム擁護協会(Anjuman Himāyat-i Islām)での会長演説(1936年4月)で次のように述べている。「インド国民会議は、インドの言語はヒンドゥスターン語、それはナーガリー文字、またはペルシア文字で表記するという決議をした。それは賢明なことだが、彼らは実際に異なることを計画していた。………1935年4月、マハトマ・ガンディーはインドールヒンディー語会議(Hindi Samilan)を主宰した。彼らは満場一致でヒンディー語普及のために協力することを決議し、委員会が設立された。………ムンシー・プレームチャンド(Munshī Premchand, 1880-1936)が編集していた月刊『白鳥(Hans)』はその委員会の傘下に入り、………その10月号で編集者は「今やヒンディー語は我々の国の言語となり、マハトマ・ガンディーのような改革者はそれを国の生きた言語にしようと決めた。これまではヒンドゥスターニー語が国の言語であり、議会もそれを公然と受け入れていた。しかし今、このヒンドゥスターニー語はヒンディー語になってしまった」(同上、67-69ページ)。

アブドゥル・ハクは、生ぬるいウルドゥー語促進協会をダイナミックで活気のある組織に変え、文学や言語面だけでなく、政治面でも闘った。アブドゥル・ハクは、民族主義的な理由でウルドゥー語を擁護するだけでなく、クリー・クトゥブ・シャー(Qulī Qutb Shāh, 1565-1612)の詩集(Dīwān)など、非常に珍しいウルドゥー語の写本を発見、編集、出版し、ウルドゥー語文学の歴史に数世紀を加えた。

独立後、パキスタンに移住したアブドゥル・ハクはカラーチーにパキスタンウルドゥー語促進協会を設立した。パキスタンウルドゥー語促進協会は現在も彼の使命を引き継いで研究活動を行っており、非常に貴重な書籍を図書館で保存するとともに研究所を出版している。

はじめに

このブログでは主にウルドゥー語研究全般(語学、文学、歴史、イスラームを含む)に役立ちそうなものを取り上げていきます。また赴くままにカラーチー生活を書き綴ります。

現在取り上げる予定のもの
パキスタンのDawn紙に掲載されているラウフ・パレーフ博士の記事

News stories for Rauf Parekh - DAWN.COM
パキスタンのJang紙に掲載されているムイーヌッディーン・アキール博士の記事https://jang.com.pk/writer/dr-moin-uddin-aqeel
③ヨーロッパやアメリカ、日本、その他地域におけるウルドゥー語研究状況
パキスタン事情全般

①②に関してはウルドゥー語研究の最前線で活躍してきた碩学による寄稿記事の翻訳(どちらも許可取得済)と簡単な解説、③は研究動向のアップデートや忘備録、または過去のプロジェクトについて、④については現在私がカラーチーに在住している関係から、政治経済日常諸々含めた雑多な記録になる予定です。主に①②メインで、③④は気が向いた時にUPします。

よろしくお願いします。